ひらたあやのゼラチン質で浮遊生活

ひらたあやの雑記。もやんもやんと波のまにまに。

【ざっくりな今後のよてい】
・3月 まるゆめ_ラボ ひおき彩乃生誕
・5月 S&D新歓公演
・夏 ミュージカル?
・秋 まるでゆめのようだ第6回公演
・12月 S&D第5回本公演


夢なんてくそくらえ

夢が叶ったり、夢をあきらめたりする。諦めきれずもがいたりもする。

夢が叶うと成功、みたいに言われているけれど、果たしてそうだろうか。

夢を諦めた人にしか笑えないことがあり、慰められない人がいたりする。

わたしは未だに何か、そういう、夢みたいなものを追いかけているので、「何かを目指して、やっぱり諦めた人」の気持ちを測ることはできない。わたしより一枚上手なそんな人々の決断を「諦めた」という表現にすることすら、間違っているような気にもなる。

がむしゃらに追いかけた経験、そしてそれを手放し、別の道へ歩み出した経験。確実にわたしみたいな人間より、経験値が高い。

そうして人生を真剣に考え、違う方向に一歩を踏み出す決意をした人は、だいたい優しい。

優しさは経験と想像から生まれる。

 

「なんのために生きて、なにをして喜ぶか」

やなせたかしも書いていたけれど、それがわからないままに死んでゆくのは悲しいことだとわたしも思う。

壮大な話じゃなくて、茄子の煮浸しが生きがいだっていい。

旦那さんをもらって、同じ味を味わって、なんでもないテレビを見る。

大きな舞台に立って、大勢の観客から拍手をもらう。

病院に勤めて、看護や介護をして、人の命や心を救う。

部屋でひとり大好きな漫画を読みながら、缶ビールを開ける。

全部同じだ。喜びの大小は自分の中にあるだけで、決められた定義はない。

そこで卑屈になる必要はない。(まあ、たまになっちゃうけど)

 

喜びを手にいれるには、やっぱりたまにはマジにならなきゃいけない。

簡単に手に入る「生きがい」なんてものはない。

マジになっているつもりで、もしくはマジになるのを諦めたまんまで、もやもやメソメソしてるのはダサいとわたしは思う。

 

劇団四季でよく浅利先生に「いいところを見せようとするな、格好をつけるな、ただ台本に忠実に、そこに居るだけでいい。過剰な味付けは台本の邪魔をする」ということを言われていた。

考え不足だったり、冷静さを失っていたり、努力不足だったりする時、人はなぜだか格好をつける。

そんな時は誰にだってもちろんあるけれど、その見せかけの皮は誰かの邪魔になってしまったり、自分のストーリーを邪魔しているかもしれない。

 

漠然と辛い気持ちになるのはもうやめて、辛い原因を誰かのせいにするなんてもってのほか。

夢を諦めることは失敗でもなければ卑屈になることでもない。

夢を諦められないことだって同じ。

縛りつけてるのは案外自分だったりする…っていうかだいたい自分なんだよね。

なにかを覚悟して生きよう。覚悟して、決断して、そしたら今までとはまったく違う喜びが手に入ったり、しますから。

努力が実ることは稀だけど、努力は救いになるよ。頑張れた自分を褒めることができるし、思ってもみないひとが「がんばったね」って言ってくれるかもしれないし。

 

暑苦しいことを書いちゃったけど、どうしても頭の中を書いておきたかったのでたまのブログを書きました。

 

わたしは頑張ってるひとも、頑張れなくて落ち込んでるひとも嫌いじゃない。

頑張れてないくせに開き直ったり他人のせいにしてるやつは嫌い!

 

 

ここまで書いたけど、正直夢なんかくそくらえじゃ。

あるのは日々の生活だけです、どんなひとにでもね。