ひらたあやのゼラチン質で浮遊生活

ひらたあやの雑記。もやんもやんと波のまにまに。

【ざっくりな今後のよてい】
・9/21~24 まるでゆめのようだ第5回公演「おしまい おしまい」
      @新宿眼科画廊
・11/18  まるゆめ_ラボ04


劇団四季には演技レッスンがない。

浅利慶太という人がいる。いや、いた。

「居て、捨てて、語れ」

劇団四季で再三言われる言葉だ。

「格好をつけるな、俺に見せようとするな。力まずシンプルにやれ」

通し稽古の前に彼はいつもそう言っていた。わたしは先生(浅利慶太)のことが大好きだった。平成最後の夏、7月13日。7月14日の創立記念日を目前に、先生は天国へ行ってしまった。

 

劇団四季がよく言われてきたことの中に「北朝鮮」「母音法が気になる」というのがある。スター俳優ではなく作品を見て欲しい・言葉を聞かせたいという結果、みんな同じに見える・言葉に捉われて感情がない…そういう風に見えていたんだと思う。

 

研究生として入団した頃、顔が覚えきれないほどの俳優の中で「何人が先生の意図を理解しているんだろう」とわたしはよく考えていた。劇団の稽古場には「ライブラリ」という図書館があったので、なるべく理解したかったわたしは先生の話の中に出てきた「ルイ・ジュヴェ」の本を読んでみたり(難しかった)、創立メンバーである藤野節子さんの本を読んでみたりもしたが、退団する頃に先生の言っていたことを理解し表現できていたかと言われると、できていなかったと思う。

 

四季では、ダンスのレッスンや歌のレッスンはあれど「演技のレッスン」はない。世の中には演技のワークショップやレッスンが溢れているのに…と不満に思っていたこともあった。だから「母音片言芝居」なんてディスられるんじゃないかと思っていたこともあった。

作る側になって分かったことは「演技は結局演技なのだ」ということ。

演じる技。

不必要なわけではないが、演技を磨いたところでそれは演じているという意識が一枚噛んでいることになる。

それでは届かないんだ「居て・捨てて・語る」には。

 

では何が必要だったか。「当事者であること」だ。

夢から醒めた夢という作品がある。夢の配達人は一人の役者を用意して、「ピコ」という女の子を演じてもらうことにする。一人の役者はピコとなり、その目で、その肌で色んなことを感じ経験する。

役者ってそういうことなんじゃないか。

 

初舞台を踏んだ"エルコスの祈り"という作品の稽古で先生に「お前はおでこが広い。おでこが広くて嫌だったことはあるか?からかわれたことはあるか?」と言われたことがある。「なんでもいい、そういう自分のコンプレックスな部分を引き出して、嫌だ!悔しい!と思う心を思いっきり出せ」と。

他の同期にも「お前はどこの出身だ。今どこに住んでいる。どうやって稽古場まで来たんだ。」そう聞き、「一人暮らしの家から、稽古場に来たお前のままでいいんだ。漠然と誰かになるな、漠然と演技をするな」と言っていた。

エルコスは問題のある子供たちが親に見放され、地獄のような学園に送り込まれている話だ。「悲しい子供たち」を漠然と演じようとしていた若い俳優たちに、先生は熱く「当事者であれ」と教えてくれていたのかもしれない。

 

ファンタジーな物語も、事実にもとずいた戦争の話も、全ての作品に「祈り」があった。「生きていてよかった」と思える演劇を、先生は作ろうとしていた。

 

ああ、生きててよかった!と思う時、そこに技なんてあるわけがない。

技に頼らぬように、"演技をしていること"に満足しないように、台本の言葉だけに集中してシンプルに演じる。虚構である演劇の世界でなるべく当事者になるには、削ぎ落とす必要があった。…のではないか、と、今になって気がつく。

 

多様性の時代、問題になっているLGBTの話の他にも、障がいのある人、不登校の学生、認知症になったお年寄り…。様々なカテゴリに当てはめられがちな日本で、自分のことをカテゴライズできない人もいるし、マイノリティだと悩んでいる人も多い。それぞれでいいんだけど、それを認めてもらえないことの方が多い。

そんな中、演劇にできることはなにか。俳優にできることはなにか。

虚構の中で「当事者に成り代われる」ことではないか。

多様性を認められない人たちにひとつの物語を見せて「この人のことをどう思いますか?あなたにはどう映りますか?」と問いかけること、当事者の人たちに対してなにか救いになれるようなこと…。

まだハッキリと見えていないけれど、本当の「居て・捨てて・語る」ができるようになればどんなテーマでやったとしても「どうせ演技じゃないか、本人でもないのに分かったふりするな」と言われることのない演劇ができる気がしている。

 

浅利先生は疎開や尊敬する人の自殺、愛する人の死を二度も経験している。父親がいい歳して俳優になると言い出したせいで演劇を憎んでいる、というのも語り草だ。

様々なことの当事者であった人からすれば、上っ面の演技で悦に浸る俳優はそりゃあ腹が立ったことだろう。時折顔を真っ赤にして震えながら放つ怒号は、そういう「怒り」からきていたんじゃないかと今更腑に落ちた。

 

 

先生は厳しかった。怖かった。お気に入りを甘やかすところもあったし、とんでもない決定をすることもあった。辛い目にあっている俳優も、スタッフも、大勢いた。

だけどいつも「家族を大事にしろ」「俳優なんてしてないで、親元で愛する人でも見つけなさい」「地元の公演には出してやるから言いなさい」と繰り返す優しい人でもあった。制作には「死んでも俳優を守れ」と言っていたと聞くし、ベテランの先輩が本番で台詞を間違えて深々と謝る姿に「もう七十なんだからそんなこともあるさ、」と困ったように笑う顔も忘れられない。

 

…少し自分の話も。

わたしはお気に入りでもなければ、役をつかんだこともない。

だけど先生の演出を受けることは5年半の劇団生活の中では割と多かった方だと思う。

上のエピソードの時からなんとなく顔を覚えられ「おでこ」と呼ばれていた。コンプレックスじゃないか、と聞いたくせにその名前で呼ぶなんていじわるな人だ。

休みの日にオーディションの練習をしに行った稽古場で先生とすれ違い、「何を受けるんですか」となぜか敬語で聞かれて答えると「頑張ってくださいね」とケラケラ笑われたこともあった。「なんで笑うんですか!」と背中に文句を言うと「ちゃんと見てますからね」といたずらっぽく笑われた。

 

…その程度の繋がりだったけれど、劇団四季の一員だった身として私なりの「先生の祈り」を受け継いで、演劇に、私生活に活かしていかねばならないと感じています。

 

長くなっちゃった。

まだまだ本当は言いたいことがある。感謝もある。だけど個人的な感情や思い出は、わたしが大事にしていればいいかなと思うので。

少ない人数でも、浅利先生のマジな部分を知って欲しかったので書きました。

9月のまるでゆめのようだで、少しは具現化できるといいな。