まるでゆめのようだ「ここは公共の電波です。」終演
お久しぶりです。知らぬ間に風も冷たくなり、すっかり秋です。
そんな中ひらたは初の自主公演というのを終わらせてこれを書いています。
ひとりぼっちの企画「まるでゆめのようだ」が始まりました。
まずは足を運んでくださった方々、応援してくださった方々、協力してくださった方々、本当にありがとうございました。
初めてなのに見境もなく脚本も演出もわたしがやる!と意気込み出来上がった作品「ここは公共の電波です。」仲の良い役者二人に支えられ、手伝ってもらい、なんとかかんとかはじめて、終えることができました。だから正確にはひとりぼっちじゃないんですけどね。あさみ、彩乃、ありがとう。
「劇団四季」という場所では、綺麗に製本された台本が渡され、指定された役を体に叩き込み、先輩や演出家から言葉をもらえ、現場に行けば舞台があり、道具があり、衣装があります。そして幕が開けば客席にはお客さんがいて、拍手をしてくださる。
それがどれだけすごいことなのか分かっていたし、その状況の分「劇団四季」の看板は大きく、重かった。
それに対して「まるでゆめのようだ」は看板すらありません。
「わたくしひらたあやがやります!」と自分で作ったたすきをかけて、自作のフライヤーを配り、誰かの肩を叩かないと始まらない。
わたしは、一人でどこまでできるのか試したかったのかもしれません。
劇団を辞めたのも、「なんで?」と聞かれると「タイミングだと思った」などと答えておりますが、正直「守られた空間じゃなくたって、わたしはやっていける」という意地っぱりもありました。わたしの好きな劇作家さんはみんな意地っ張りでしたから、影響を受けたこともあります。
そんなこんなで今年の夏にギャラリーコンシールで「芝居がやりたい」と始まったわけです。
まるでゆめのようだ 第一回公演
「ここは公共の電波です。」
二日、二回公演で約90名ほどのお客様に足を運んでいただけました。
フルキャパは一回50名。それがギャラリーカフェの椅子の限界でした。キャストは三名のみ。もしかしたら、一回20人も入らなくて、カラカラで、椅子も余りに余って、笑えない状況になることを毎日考えていました。
カラカラの客席がシーーンと静まり返りぴくりともしない、という想像でずっとゲボが出そうでしたが、「観に行くよ」と言っていただけると今度は笑っていないその人の顔を想像してしまったりしてさらにゲボが…というループ。
「自分の中で経験や前例がない」ってことはこんなに怖いことなんだなと震えました。
ゲボゲボ言っていた結果、見えにくい席が出るという問題が発生するくらいお客さんが来てくださり、あたたかい空気に満ち満ちた中で伸び伸びと芝居をすることができました。
芝居というのは観てくれる人がいないと成立しない。
当たり前のことですが、腹の底からそれを感じた第一回公演でした。
感想もいただけ、問題点も山のように見つかり、お客さんから「こういうのも観たいかも」なんて意見までいただけてもう私は「ありがとうございます」の気持ちで涙腺も血管も爆発しそうですが、爆発をおさえて「次も頑張るので、またぜひ来てください」と自分にエンジンをかけたいとおもいます。
自分の心情ばかり書き連ねてしまいましたが、本作は「アパレル女三人の微妙な距離感」や「SNSとリアル」「女の子の夢が散ってゆく姿とそれに呼応する姿」などわたしが普段興味深く思っているものを書きました。
夢が散ってゆく姿はいつ見ても悲しく、しかし異常なこの世界から現実へ帰ってゆく人の背中はひとつ頼もしくなっていたりするもので。夢を抱いてキラキラしている姿にも、その頼もしさにも、嫉妬してしまうわたしの気持ちも混じっていました。
長くなってしまった。気持ちのことばかりで、読みづらくてすいません。
「まるでゆめのようだ」はいろんな形のお芝居をやっていこうと思っております。「なんでもありなんだな」なんて思いながら気軽に見ていただける、そんなものにしてゆくつもりです。
てんてこ舞いで必死に足掻くひらたあやのまるゆめに、今後もお付き合いいただければと思います。やってやんよ。